生きる意味の常識のウソ その10

やりたいことをやるため




「自分の好きなことをやって死ねば、悔いなし」


という人生観をもっている人は数多くあります。


「どうせ死ぬなら、自分のやりたいことを思いっきりやって

死ねばそれで後悔しないよ。」

あなたもそう思っているのではないでしょうか。




本当にそうなのか、考えてみましょう。


『死ぬ瞬間』などの著書で世界的に有名な精神科医、

キューブラー・ロスは、ターミナルケア(終末医療)

の先駆者として、40数年にわたり数千人の人々の

最期を看取ってきました。


死に行く人を励まし、愛の言葉で力づけてきた功績で、

聖人とも聖女とも呼ばれていた彼女は、晩年脳梗塞に倒れ、

豹変しています。



生きる意味 キューブラロス
キューブラロス(Wikipedia)
「もうこんな生活はたくさんよ。愛なんて、もううんざり。

よく言ったもんだわ」

「聖人? よしてよ、ヘドが出る」

そして孤独でだれにも会いたがらず、夜になって鳴き声の

聞こえてくるコヨーテや鳥だけが友人、と語っています。


「インタビュアーが、あなたは長い間精神分析を受けたので、

それが役立っているだろうに、と問いかけると、

精神分析は時間と金の無駄であった、

とにべもない返答がかえってくる。

彼女の言葉は激しい。自分の仕事、名声、たくさん届けられる

ファン・レター、そんなのは何の意味もない。

今、何もできずにいる自分など一銭の価値もない、と言うのだ。」

(河合隼雄「平成おとぎ話」京都新聞)


キューブラ−・ロスは、好きな仕事をしていて、倒れても後悔ない、

と元気なときは思っていたはずです。

しかも、死ぬ瞬間について、人に教えていました。

ところが、実際自分の死が近づくと、精神分析は時間と金の無駄であった、

と後悔が残ります。



また、がんと闘って10年、東大・宗教学教授の岸本英夫氏は、

自らの闘病記を出版し、次のように記しています。


人間が、ふつうに、幸福と考えているものは、傷つきやすい、

みかけの幸福である場合が、多いようであります。それが、本当に

力強い幸福であるかどうかは、それを、死に直面した場合にたたせて

みると、はっきりいたします。

たとえば、富とか、地位とか、名誉とかいう社会的条件は、

たしかに、幸福をつくり出している要素であります。また、

肉体の健康とか、知恵とか、本能とか、容貌の美しさというような

個人的条件も、幸福をつくり出している要素であります。

これが、人間の幸福にとって、重要な要素であることは、

まちがいはないのであります。だからこそ、みんなは、

富や美貌にあこがれるのでありまして、それは、もっともな

ことであります。しかし、もし、そうした外側の要素だけに、

たよりきった心持でいると、その幸福は、やぶれやすいのであります。

そうした幸福を、自分の死と事実の前にたたせてみますと、

それが、はっきり、出てまいります。今まで、輝かしくみえたものが、

急に光を失って、色あせたものになってしまいます。


お金では、命は、買えない。

社会的地位は、死後の問題に、答えてはくれないのであります。

『死を見つめる心』(岸本英夫)


昔、千円札だった夏目漱石

日頃「則天去私」と言っていました。

生きる意味 夏目漱石
夏目漱石(Wikipedia)

一種の悟りのようなものを開いていて、

「いつ死んでもいい」ということです。

でも、臨終には「いま死んでは困る、いま死んでは困る」と

言って死んでいきました。


ある大学生は、

冬山に登って、遭難してしまいました。

新聞に、お母さんあての遺書が紹介されました。


「山の死が美しいと言っていたのは、一種の感傷でした。

もし生きて帰れたならば、もう二度と山には登りません」


この遺書から、普段の会話が想像できるのではないでしょうか。


お母さんは「あなた山はいいけど、何も冬に登ることないでしょう。

夏に登りなさい」

「母さん、聞いてくれよ。僕は山が好きなんだ。

だから、僕は山に登って死ねれば本望。山の死は美しいんだ」


普段はそう言っていたが、いざ遭難して、死ぬかもしれないとなったら、

「もし生きて帰れたならば、もう二度と山には登りません」

となっています。


これらの例に共通して、元気なときは

「自分の好きなことやって死ねば後悔なし」

と思っていますが、

死ぬ時、病気になったら「後悔」してしまいます。

どうしてこうなってしまうのでしょうか?


仏教では、すべての人が

『顛倒の妄念』



という心を持っていると説かれます。


『顛倒』とは、ひっくり返った、逆立ちした、逆ということ。

『妄念』とは、間違った思いということです。

どう逆立ちしていると思いますか?

本当は『無常』なのに、あなたの心は『常』と思っているのではないでしょうか。

『無常』とは常がない。

続かない。

どんどん変わっていくということです。

この世のものは何でも変わっていきますが

私たちが死んでいくのは中でもものすごい変化だから、

無常とは死のことです。

すべての人は、やがて必ず死んでいくのですが、

いつかはわかりません。

今日元気な人でも事故にあって死ぬかもしれません。

でも、みんなそれがわかっていないのです。

例えば、あなたは明日死ぬと思いますか?

思いません。

明日聞いても同じように答えると思います。

どこまでいっても、「明日は死なない」

後ろから光をあてられて、影を踏もうとしているように、

どこまでいっても「明日は死なない」


年をとったら明日死ぬと思えるのでは?

何歳くらいになったら?

80歳くらいですか?

でも、そのくらいの年の人、周りにいる。


本気で「明日死ぬ」となったら相当あせるのではないでしょうか?

きんさんぎんさん。

100何歳かの誕生日にインタビューを受けていた。

「おめでとうございます。たくさんお祝いもらわれて良かったですね〜。

 そのお金どうするんですか?」

「はい、半分は寄付します」

「えらいですね〜。もう半分はどうされますか?」

「あとの半分は、老後のためにとっておきます」

本気で今日死ぬと思ったら、そんなことしない。

100歳越えても、今日死ぬと思えない。


本当はいつ死ぬかわからないのです。

今日交通事故で死ぬこともあるのに。

今日も死なない、明日も死なない、

ずーっと生きているかのような心を持っています。


このように、事実は『無常』なのに、

私たちの心は『いつまでも生きていられる』

と思っています。


私たちの人生観は、その

「いつまでも生きていられる」

という大前提の上に立っているものばかりです。


「好きなことやれれば後悔ない」

「死んだら死んだ時」

「人生の目的なんて考えてもしょうがない」


ところが臨終にそう思っている人があるでしょうか。

「好きなことやって死ねば後悔ない」

と思っていた人が、いざ死んでいくときに後悔するのです。

臨終にならないと誰も気づかない落とし穴だから、

チェーホフは代表作『六号病室』に、


生きる意味 チェーホフ
チェーホフ(Wikipedia)




「人生はいまいましい罠」


と表現しているのかもしれません。


仏教では

大命まさに終わらんとして懼悔こもごも至る(大無量寿経)



と説かれます。

『大命』とは、肉体の命。

『大命まさに終わらんとして』とは、臨終にということ。

『懼悔』とは、

『懼』とは未来に対するおそれ

『悔』とはこれまでの人生に対する後悔

いよいよ死んでゆく時に、臨終にたよりにならないものを求めてきた

今までの人生に対する後悔と、死んだらどこに行くのかはっきりしない

未来に対するおそれが、かわるがわるやってくると教えられているのです。

では、わが人生に悔いなし、となるにはどうすればいいのか。

この答えが仏教にハッキリ説かれています。


それを知る鍵となる

仏教に説かれる「苦悩の根元」を、

1冊の小冊子にまとめました。

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