プライバシーポリシー

メルマガ

ログイン │  無料登録 
無料レポート
あなたを

一生苦しめる

人生最大の間違い


生きる意味 無料レポート

 2500年以上前に解明され、ほとんどの人が知ることがなかった幸福になれない秘密!お金や名誉を喜ぶ心の奥底で動めく心のシステムを7ステップ80ページでついに公開!!

アドレス:


メルマガにも登録されますが、いつでも解除できます。

著書
このサイトをもとに、中村僚が本名で書いた『生きる意味109』が5万部のベストセラーとなりました!どうもありがとうございました。
『生きる意味109』
人生の名言集


人生観が狂えば人生狂う

なぜあなたは苦しむのか

人生の常識・14のウソ

本当の幸福になるポイント

レビュー

仏教をたたえる人々

よくある質問

テーマ選択

(4 テーマ)


トップ (メニュー)  >  仏教をたたえる人々  >  5 日本史

歴史上の人々

では仏教は、いつ頃から、どうやって伝わってきたのでしょうか


目次


1 聖明王

2 欽明天皇

3 聖徳太子

4 藤原道長

5 清少納言

6 源俊頼

7 義経と弁慶

8 後白河院

9 平家物語・仏御前

10 藤原俊成

11 信長の最期

12 小林一茶


1 大和時代


1 聖明王

日本に仏教を伝えた韓国の偉大な王

百済の第26代・聖明王(せいめいおう、?〜554)は、中国南朝

と結び、また新羅・倭との連携を図って高句麗に対抗しようとす

る百済の伝統的な外交態勢を固めました。中国から涅槃経の教義

などを受け入れ、国内では仏教を保護して大通寺を建立しました。

さらに、日本に使者をよこし、金銅の仏像一体、経典などと共に、

当時の天皇に次のような手紙を送ってきたことが、日本書紀の第

19巻に記されています。


仏教は、あらゆる教えの中で、もっともすぐれた

ものです。
その教えは難しく、とりつきにくいもの

ですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、

遠くインドから中国、朝鮮まで、広まっています。

このすばらしいみ仏の教えをぜひ、日本でも、

広めて頂きたいと思います。


2 欽明天皇

仏教を日本に受け入れた

聖徳太子の祖父


欽明天皇(きんめいてんのう 509〜571)は、聖徳太子の祖父に

あたり、仏教を日本に受け入れた天皇です。

ある時、百済からの使者が、海を越え、船にいくばくかの経典な

どを積み、大和朝廷に到着しました。朝廷で欽明天皇の前に通さ

れた使者は、経典や持参の献上物と、百済の聖明王からの手紙を

取り出し、天皇に渡します。そこには次のように書かれてありま

した。これが聖明王の項で紹介した原文です。

 『是の法は諸の法の中に最も殊勝れています。解(さと)り難く

  入り難し。周公・孔子も尚し知りたまふこと能わず。此の法は

  能く量も無く辺も無き福徳果報を生し、乃至(すなわ)ち無上

  (すぐ)れたる菩提を成弁す。』

 手紙を読んだ欽明天皇は、躍り上がるほどに喜びました。

 こうして、538年10月

 ついに仏教公伝。

 欽明天皇の言葉が、「日本書紀」第19巻に、次のように

 記されています。



「朕(われ)昔より来(このかた)未だかつてかくの如き

 微妙(くわ)しき法を聞くことをえず」


(自分は昔からこれまで、このような素晴らしい教えを

 聞いたことがなかった)『岩波文庫:日本書紀』


3 聖徳太子

天皇家の超有名人までもが…

お札にもなって、今なお多くの人に尊敬されている聖徳太子

また、かつて仏教により、時代を先取りされた方でした。

日本初の憲法・十七条憲法の第一条は、有名な「和を以て貴しと

なす」ですが、第二条でいきなり、

生きる意味 聖徳太子
聖徳太子(Wikipedia)

『篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり、

則ち四生の終帰万国の極宗なり

いづれの世いづれの人かこの法を貴ばざる。

それ三宝に帰せずしては何を以ってか

まがれるを直らせん。』

といわれています。

つまり、「日本人は仏教を敬いなさい」ということです。

『仏法僧』とは、

 仏宝(お釈迦様)

 法宝(お釈迦様の教え・仏教)

 僧宝(仏教を正確に伝える人)の三つですが、


『いつの時代、どこの国の人でも、三宝によらずしては、どうして

 本当の幸せになれるだろうか、仏教は、

 四生の終帰(生きとし生けるものすべてが最後、帰依するところ)

 万国の極宗(古今東西の全人類の救われるたった一本の道)

 である』と、最大級の賛辞を惜しまれません。


 また、お経の注釈をされたり、594年、仏教興隆の詔を発し、

 仏教の興隆につとめられています。


これは、仏教の内容を考えれば、想像を絶する斬新なことなのです。

なぜなら、聖徳太子は、推古天皇の摂政。

当然天皇を神とする、日本神道の後継者のはずだからです。

1946年、天皇は人間宣言をし、自ら神ではないと言っていま

すが、天皇は神とされていた当時、神の存在を否定している仏教

を取り入れる
のは、『天皇は神ではない』ということですから、

時代背景を考えれば、いかに客観性のある、千年の時を超え、

時代を先取りされた方かとわかります。

2 平安時代

4 藤原道長

享年62才。この世の栄華を極めた男の最期。


「この世をばわが世とぞ思う望月のかけたることもなしと思へば」

平安時代の中期、藤原氏による摂関政治の頂点に立ったのが

藤原道長(ふじわらのみちなが 966〜1028)です。

30年間、日本のトップとして、絶対権力の座にあり、わが世の春

を謳歌しました。


ところが、たとえどんなに、栄耀栄華をほこっても、盛者必衰、会

者定離はこの世のならい、永遠に続くわけではありませでした。

晩年には、娘の寛子、嬉子、妍子があいついで死に、彰子は出家、

道長自身も、ひどい糖尿病から視力障害を併発し始めます。

しかし、道長にとって最も恐ろしいのは我が身の死でした。

一息切れたらどこへゆくのか。不安はつのるばかり。

ついに名を行観と改め、仏道生活に入り、源信僧都の往生要集の

指南により、阿弥陀如来にひとすじにすがってゆきます。

 死の床に伏すと、自ら建てた法成寺阿弥陀堂の本尊の前に病床を

設け、九体の阿弥陀如来の手から五色の糸を自分の手に結び、北枕

で西向きに臥しました。その周りを妻や貴族、有力国司がとり囲み、

天台座主、院源を導師として念仏読経させています。

『栄花物語』によれば、次のような姿でありました。


生きる意味 藤原道長
藤原道長(Wikipedia)

いみじき智者も死ぬるをりは三つの愛を

こそ起すなれ。

 中略

すべて臨終念仏思しつづけさせたまふ。

仏の相好にあらずよりほかの色を見むと

思しめさず

仏法の声にあらずよりほかの余の声を

聞かんと思しめさず

後生のことよりほかのことを思しめさず

御目には弥陀如来の相好を見たてまつらせたまひ

御耳には尊き念仏を聞しめし

御心には極楽を思しめしやりて

御手には弥陀如来の糸をひかへさせたまひて

北枕に西向きに伏せさせたまへり。

栄花物語 巻三十

享年62才。この世の栄華を極めた道長の最期でした。

(※三つの愛…三つの執着心
    境界愛─臨終にその愛する妻子、家財等におこす執着
    自体愛─自分の身体に対する強い執着
    当生愛─死ぬ時に未来に生まれる処についておこす愛着心)



5 清少納言

枕草子にずばりつづる

仏教の講師への率直な気持ち



 中古三十六歌仙の一人、清少納言(せい しょうなごん 966?〜

 1025?)は、枕草子によって、現代のほとんどの日本人に、その

 名が知られています。当時は、学問と言えば仏教しかなく、貴族

 たちは、みな仏教の話を聞いていました。
清少納言も、仏教は尊

 いと思っていますが、その講師に対する正直な気持ちを、枕草子

 に書いていることは有名です。


生きる意味 清少納言
清少納言(Wikipedia)

 説教の講師は、顔よき。講師の顔を、つと

まもらへたるこそ、その説くことの尊とさも

おぼゆれ。ひが目しつれば、ふと忘るるに、

にくげなるは罪を得らむとおぼゆ。

(『枕草子』第三十三段「説教の講師は」)

(仏教の講師は、顔がよくないと。講師の顔をじっと見守ってしま

 うくらいだと、お話も尊く思われてくるわよね。わき目をふる

 と、すぐ忘れちゃうから、醜いのって罪なんじゃないかしら。)


6 源俊頼

勅撰和歌集の一つを撰集


百人一首にもとりあげられている源俊頼(みなもと の としより、

1055〜1129)は平安時代後期の歌人で、当時の歌壇の

中心的存在でありました。革新的な歌を詠むことで知られ、

白河院の命により勅撰和歌集の一つ「金葉和歌集」を

撰集しています。

その中に次のような和歌を詠んでおり、当時貴族の間で、仏教が盛

んであったことが伺えます。


たゆみなく心をかくる彌陀ぼとけ

人遣ならぬ誓たがふな


障子のゑに天王寺の西門にて法師の舟に

のりてにしざまにこぎ離れ

てゆくかたかける所をよめる




阿彌陀佛と唱ふる聲(こえ)を楫(かじ)にてや

苦しき海を漕ぎ離るらむ

(金葉和歌集卷第十)




7 義経と弁慶


 牛若丸で有名な、源義経(みなもとのよしつね 1159〜1189)は

 源義朝が平清盛に敗北したことから、鞍馬寺に預けられました。

 五条大橋で1000本の刀を集めようとしていた武蔵坊弁慶(む

 さしぼうべんけい ?〜1189)と出会い、兄である頼朝が平家打倒

 の兵を挙げると、はせ参じて、鵯越による一ノ谷の奇襲、暴風雨

 の中、船で出撃しての屋島の奇襲、壇ノ浦の八艘飛など、知略と

 勇気によって平家を滅ぼし、最大功労者となりました。


 ところが、それが頼朝のねたみをかい、今度は義経が追討される

 側になります。京都から三重、岐阜を通って東北へ逃げてゆきま

 すが、途中、富山県の小矢部川を渡る時、どうしても船で渡らね

 ばならなりませんでした。

 ところが、ここにも義経の人相書きが出回って、渡し守から疑わ

 れます。その時弁慶

「なまじお前が義経ににているから、渡れんではないか」

 と、杖で義経の体を容赦なくたたきつけたのです。

 義経はみるみるうちにアザだらけになりました。

 このまま殺してしまうのではないかと慌てた渡し守は、本当に

義経ならば、こんなことをするはずがないと思い、

「もうよい、もうよい、早く行くがよい」

 と乗船を許可したのです。

 川を渡り、安全な場所までうつった時、弁慶は突然義経の足元に

 突っ伏し、号泣しながら詫びました。

「殿をかばうためとはいえ、この手で打ち据えたこと、どうかお許

 しくだされ、どうかお許しを・・・」

 あざだらけの顔で義経

「それもこれも、義経を思ってのこと」と感謝したといいます。

 そんな義経弁慶にも最後の時がやってきます。

 二人の辞世の句は次のように伝えられています。


生きる意味 義経と弁慶
義経と弁慶(Wikipedia)


「六道の道の ちまたに君待ちて 

      弥陀の浄土へすぐに参らん」

                     (武蔵坊弁慶)


「のちの世も またのちの世も めぐりあはむ

           そむ紫の雲の上まで」(源義経)

            (そむ紫の雲の上……弥陀の浄土)



かくて、奥州衣川にて、弁慶は仁王立ちのまま死し、義経享年31

歳にて自害、平家追討の最大功労者でありながら、非業の最期を

遂げました。



8 後白河院 梁塵秘抄

絶大な権力を持った上皇の趣味


後白河天皇(ごしらかわてんのう 1127〜1192)は、生きている

うちは鎌倉幕府が開けない程の強大な権力を持って院政を行った

上皇でした。死ぬとすぐに鎌倉幕府が開かれましたが、『平治物

語』によれば、そんな混乱の時代にあって、「今様狂い」と称さ

れるほどの遊び人で、歌いすぎて何度ものどをこわしたとか。

「今様」とは、当時、庶民に広まっていた歌ですが、それを集め

て、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』の編纂まで行いました。

今で言えば、戦時中に、天皇がカラオケ狂と言われる遊び人で、

『最新ベスト・ソング』をまとめたみたいなもの。

…何か事情があったのでしょうか?

ところが、梁塵秘抄の内容は、例えば次のよな歌が掲載され、

仏教思想が色濃く反映しています。


浄土は数多(あまた)あんなれど 彌陀の浄土ぞすぐれたる

          九品なんなれば 下品下にてもありぬべし

彌陀の誓ぞ たのもしき 十悪五逆の人なれど

           一たび御名を称うれば 来迎引接疑わず




3 鎌倉時代以降

9 平家物語

軍記物語の最高傑作


「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」で始まる『平家物語』

は、軍記物語の最高傑作であり、琵琶法師の琵琶の伴奏によって

語られた、中世の国民的叙事詩ともいうべき文学です。


冒頭の諸行無常、盛者必衰、因果応報の仏教的道理は、平清盛、

基礎義仲、源義経の三人の主要人物だけでなく、登場するすべて

の人に貫かれています。



「平家にあらずんば人にあらず」と豪語する程、栄華を極めた平

家が、わずか30年で滅びゆく無常観、自らの生きる道を力強く

切り開いてゆく東国の武士たち、時代に翻弄されながら生きる女

性たちの哀しい運命が鮮やかに描かれています。


たとえば、平清盛の寵愛を受けていた白拍子の女性、祇王の紹介

で、当時16才の仏御前という女性が清盛に目通りを許されます。

ところが清盛が仏御前をすっかり気に入ってしまうと、祇王は清

盛の元を去り、出家してしまいます。ところが、仏御前も次のよ

うに言ってそれをおうのです。


娑婆の栄華は夢の夢 楽しみ栄えて何にかはせむ

人身はうけがたく 仏教にはあひがたし

この度、泥梨(でいり)(地獄)に沈みなば

多生昿劫をばへだつとも うかびあがらん事かたし

(この世でどんな栄耀栄華を極めたといっても、死んでいく時に

 何のたよりになるだろうか。

 人間には生まれがたく、仏法は聞きがたい

 もしまた、後生の一大事の解決が出来ないまま命尽きれば、果て

 しなく長い間、その苦しみから離れることはできないであろう)



 やがて、二人とも念仏を専修し、遅い早いの違いこそあれ、往生

 の本懐を遂げたとのシーンでは、聞く人は涙せずにおれません。



10 藤原俊成

道長のひ孫にしてすぐれた教育者


平安後期から鎌倉初期に活躍した歌人、藤原俊成(ふじわらのと

しなり 1114〜1204)は、道長のひ孫にして、関白九条兼実から

庇護を受けました。また、後白河院の命により『千載和歌集』の

編纂を行っています。教育者としても定評があり、九条家の歌の

指導のほか、実子である藤原定家をはじめ、養子寂蓮、藤原家隆

等「新古今和歌集」の選者6名のうち3名を指導。平清盛の弟、

忠度(ただのり)にも教えていました。


そのエピソードは、平家物語に涙と共に語られます。

武勇、和歌の才、共に優れていた平忠度は、平氏一門都落ちの際、

都へ引き返し、昔、歌を習っていた俊成の邸を訪れました。びっ

くりして動揺する家人達に「門は開けずとも、せめてこの近くま

で…」と懇願。俊成は、その人ならさしつかえないと、入れさせ

ます。喜んだ忠度は「平家の命運も、今は尽きてしまいました。

ですが、先生は勅撰集の編纂をされるとお聞きします。私達が死

に、やがて平和な世になりましたあかつきには、どうか私の歌も

一首入れてもらえないものかと思いまして…」と最後の願いを伝

えると、風のように西方へ走り去ってゆきます。


やがて、一ノ谷の合戦に、忠度は大将軍として出陣。部下が逃げ

まどう大混戦の中、一歩も引かずに一騎打ちに臨みます。武勇に

優れた忠度は、はじめは優勢でしたが、後ろから相手の子供に右

腕を落とされます。どうすることもできなくなった忠度は、今は

これまでと無念の涙を飲んで「しばしのけ、十念となえん」

(念仏を称えるからしばらくどいておれ)と念仏を称え、討ちと

られてゆきました。懐から見つかった和歌によって忠度とわかり、

敵、味方共に忠度の死を惜しんだと言われます。


ところが勅撰和歌集に、逆賊となった平家の歌は、本来入れるこ

とはできません。忠度の気持ちを尊重した俊成は、「よみ人知ら

ず」として『千載集』にひっそりと載せたと言われます。
 

時は、戦乱の続く末法の世。往生要集をあらわした源信僧都が、

いつの時代、どんな人でも救われる、他力易行の浄土仏教を伝

え、貴族、武士、庶民をとわず、爆発的に広まった時代でした。

俊成自身も、千載和歌集に次のような歌を詠んでいます。


いまぞこれ入り日を見ても思ひこし弥陀の御国の夕暮れの空

                (藤原俊成・千載和歌集)


11 信長の最期・敦盛



天下統一目前にして本能寺を明智光秀に急襲された織田信長(おだ

生きる意味 織田信長
織田信長(Wikipedia)

のぶなが 1534〜1582)は、一人、槍をもって奮戦するも怪我をお

い、ついに小姓の森欄丸に火を放たせ、炎の中に自刃してゆきまし

た。


最期に舞ったと言われるのは、かつて今川義元に、日本最大の奇襲

をしかける際にも舞った、次の敦盛だったと言われます。

人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり



桶狭間で今川義元を破りしより、朝に一城、夕に一国、戦えば勝ち、

攻めれば落ちて、群雄草の如くなびかせ、五畿内の猛将を馬前の塵

に蹴った信長も、あわれ非業の最期を遂げました。信長にとって、

一体何のための人生だったのでしょうか。享年49才でありました。

ところで、この49才と、『人間五十年』とは、直接関係がありま

せん。

実は、印度の仏教学者、天親菩薩の「倶舎論」にある「人間五十年

下天一昼夜」から来ています。下天とは、天上界の中の四王天とい

う世界のことで、人間界の五十年は、四王天の一日一夜に相当しま

す。四王天の寿命は五百才ですから、敦盛の作者は、この倶舎論を

もとに、「人間界の五十年も、四王天と比ベてみれば、夢まぼろし

の如く一瞬のことにすぎない」といっているのです。

これは、信長の人生観と合致していたのか、特にお気に入りで、こ

とあるごとに舞ったのだといわれています。


小林一茶




仏教の真髄を詠もうとした俳人


長野県出身の江戸時代の俳人小林一茶(こばやしいっさ 1763〜

1828)は、3才で母親を亡くし、8才から継母に育てられました

が、14才で信濃から江戸へ丁稚奉公に出されました。浄土真宗

の家に生まれ、若い頃はやや反感を持っていたものの、やがて仏

法を学ぶようになります。52才でようやく結婚し、長女をもう

けますが、幼くして病で失います。その筆舌に尽くしがたい父親

の悲しみは、

露の世は 露の世ながら さりながら


(この世は露のようにはかないものと聞いてはいたが…それでも…)

ここで一茶に筆を置かせてしまいます。

次々と人生の苦しみがやってきますが、仏の教えによって力強く

明るく生きてゆきます。

やがて深い仏教の教えを詠もうと試みるようになります。

例えば57才の暮れには、


ともかくも あなた任せの としの暮


(今年も暮れてゆくが、どんな境遇でも他力にうち任せるよりない)



『あなた任せ』とは、他人任せの無責任ということではなく、

我執を離れ、真実の仏にうちまかせるという仏教の真髄

『捨自帰他』
をよんだものです。

次々と襲いくる不幸な境遇に負けず、仏法精神を背景に、最後ま

で力強く生きた俳人でした。

日本の歴史も、仏教と深い関係がありますが、
このように歴史上多くの人が
仏教の影響を受けているのです。



そんな仏教に、本当の「生きる意味」が説かれています。

それを知る鍵となる仏教に説かれる「苦悩の根元」を、

1冊の小冊子にまとめました。

まだの方には、ダウンロードURLとパスワードを送りますので、
今すぐご覧ください。


メールアドレス:


 また、最新の情報もメルマガ(いつでも解除できます)で配信しています。


また、もっと詳しく知りたい方には、勉強会もあります。

仏教に学ぶ生きる意味 勉強会のご案内
プリンタ用画面
友達に伝える

前
4 日本文化
カテゴリートップ
仏教をたたえる人々
次
6 海外文学
Copyright (c) '08- 生きる意味 All rights reserved.